鉄製の仏像

安禅寺には数々の秘仏がありますが、その中に「鉄製」の仏像という、ちょっと変わったのがあります。鉄は錆びやすく、錆びると表面がぼろぼろなりやすいので、余り仏像向きではないと思われます。有名な仏像はもちろん、普通のお寺の本尊になっているものは、ほとんどが青銅や木製でできています。    

実際、この鉄の仏像は表面が削ぎ落ちていて、表情は分からないし、全体の印象はノッペラボウです。そのためか、このお宝・秘話ザクザクの秘仏の写真に取り上げられませんでした(次回更新時に掲載をお願いしています)。では「何故そんな欠陥のある“鉄の仏像”がこの安禅寺に安置されるのか?」ですが「そこにこそ大変な意味があるのではないか?」と推測で書いてみます。    

この安禅寺のある蔵王の地は古くから「砂鉄が取れた」ようで、そのことは10数年前に蔵王の敷地で地下を掘った際に「大量の鉄滓(テツカス)が出た」ことでわかります。また中世には修験者すなわち山伏が蔵王権現に出入りしていた事実もはっきりしています。修験者には各種の技能を身につけていた者も多く、その中に製鉄技術を持っていた者がいたようです。それはその時代のものとはっきりしている梵鐘(ボンショウ)や鰐口(ワニグチ)などの鉄製品が長岡に残っていることで証明できます。    

さらに江戸時代には、蔵王に近い新町というところに、鋳物師の大物「星野太郎右衛門」が出現しました。この太郎右衛門家は代々、土屋(どや)(今の鉄工所)と呼ばれ、100名を超えるほどの鋳掛けを育てるほどのもので、牧野の殿様も特別な待遇をしていました。こういう地の中心にある蔵王権現では「鉄の仏像を信仰の対象にして大事にした」のでないでしょうか・・・。    

ところで鉄は今でも一番威力のある金属です。鉄の農具は農業の生産性を飛躍的に向上させたし、武器にも用いればその威力は絶大です。でも戊辰戦争では長岡の鉄工所のものでは欧米列強の最新式兵器に遠く及ばないものだったからでしょうか、長岡の鉄工業は明治初期に一度廃れてしまいました。そんな長岡周辺で石油産出が始まり、いろんな道具の需要が起こりました。そこで、土屋の職人だった者が次々に鋳造所などを開設し、明治の中頃には長岡は鉄工業の一大産地に成長しました。

こういった歴史を思うと「この鉄の仏像そこは長岡の鉄工業発展のシンボル」かもしれません。そんな鉄の仏像なのに明治初期の廃仏希釈の嵐にあっては投げ出されただろうし、今日の平和な時代になっても風貌がノッペラボウで見向きもされない可能性もあります。そうであっても、今は部屋の中で安置され、穏やかな日々を送っておられ、私たちに微笑んでくれています。でも後々まで平穏が続くためには「こういった歴史を知ってもらう」ことも大事かと思います。    

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コメント: 1
  • #1

    The-Oh (火曜日, 05 7月 2016 00:00)

    「安禅寺の鐘楼・梵鐘」
     
    〔鐘楼〕 明治初期の神仏分離により安禅寺は廃寺となり、仁王門と梵鐘は払い下げとなった。 蔵王権現の氏子総代で古志郡堀金村の大庄屋近藤氏の次女が光西寺第十五代住職 藤井宣界の妻である縁故で、戊辰の兵火で本堂や庫裏・鐘楼などことごとく焼失した本与板「光西寺」に安禅寺の鐘楼(二層形式木造入母屋造瓦葺)は明治七年に払い下げ移築された。 当山毘沙門堂内陣に祀られておる、吉祥天立像と善膩師童子立像は、光西寺第十六代住職で万歳閣を造営した傑僧「藤井界雄」の作である。

    〔梵鐘〕 享徳四年(1455)の鋳造で、新潟県内で三番目に古いとされている、亀貝町の妙音寺の梵鐘は、もとは安禅寺の鐘楼に古くから下がっていたもので、明治初期の神仏分離の際、安禅寺の梵鐘は妙音寺に明治七年(1874)譲渡されたものである。 刻銘に「越後国古志郡大島荘、蔵王大権現、享徳四年乙亥四月二日、願主別当権律師恵実 大工信吉」とある。 「県指定有形文化財」

    安禅寺の歴史を長く見てきた鐘楼、梵鐘も、これからもまだまだ他の地で頑張ってくれることでしょう。