越後の歴史上最高位になった女性?

 今回も引き続き、もう一人の白狐伝説になったと思われる女性の話です。この女性、もし証明できれば「越後の歴史上最高位になった女性」となります。その女性は「妙徳院」で、その祠は蔵王堂城址の土塁上に「正善霊神」という石碑があります。

 最高位すなわち超大物ですが「歴史の表舞台に出ては幕府に不都合」ということで“裏に閉じ込められた女性”です。“裏”ということでほとんど「資料は残っていない」のが残念です。裏の理由は、二代将軍秀忠の御手付きの女性で、その娘が天皇に嫁いだからです。その娘とは「徳川和子(まさこ)」、正室のお江の五女ということになっています。「和子は、将軍秀忠の娘として後水尾天皇に輿入れ」しています。正室は「お江」で茶々の妹で秀忠が側室を持つことを許さなかったということになっています。そこには天皇に嫁いだ将軍秀忠の五女は「本当は地方の名もなき女子の娘」というのでは困るわけです。

 そんな訳で徳川家の史書では、秀忠は側室などを持たず「正室のお江、一筋」ということになっていると思われます。このため「和子の母は長岡の女性、妙徳院」というのは長岡だけになっていますが、状況証拠はいろいろ揃っています。その辺を詳しく検証し、イメージも膨らませ、書かれたのが“稲川明雄著の「長岡築城物語」”という書籍です。その本には、和子が生まれるまでのドラマがいろんな人物と絡め、リアリティが溢れる感じで書かれています。これだけ、長岡築城の秘話が書かれているものはありません。  

 ところでこの「妙徳院」と名乗るのは、徳川和子が後水尾天皇のところに輿入れをした後、長岡に戻って蔵王権現の近くで住むようになってからのようです。今でも蔵王神社の敷地にある妙徳院の祠をお参り人は多く、妙徳院は長岡の大事な人になっています。また和子は後水尾天皇が退位した後は「東福門院和子」と名乗っています。

 この妙徳院が長岡に住んでくれたことが長岡の発展に繋がったようです。蔵王権現は上野の寛永寺と長く深い付き合いもあって、資金援助もあったようです。また妙徳院の弟、草間茂右衛門は有力商人となって、河川交通も盛んにしました。

 この妙徳院と前回書いた妙泉院の「二人が白狐伝説になった」のでしょう。この二人の活躍した頃から今がちょうど400年ほど、この二人こそ城下町長岡のルーツと言えます。

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コメント: 2
  • #1

    The-Oh (土曜日, 12 12月 2015 23:01)

     絶世の越後美人であったろう「妙徳院」は二代将軍秀忠の死去後、天海僧正によって剃髪し、将軍家より三百石の化粧料を下賜され、妙徳院を秀忠に推挙した堀直竒公ゆかりの、蔵王の庵に住いしたことにより、その後の蔵王権現社(現 安禅寺)が権威を誇ることとなる。その長岡文化の源流地「蔵王」の安禅寺境内「毘沙門堂」内々陣に平安時代から秘仏として祀られ、今も多数安置されておる貴重な尊像の『千三百年の祈り!ご開帳』を、大晦日から新年三が日(12/31~1/3)普段は公開されていない、お姿を拝むことが叶います。「ご開帳」に併せ貴重な寺宝「両界曼荼羅」や「涅槃図」ほか江戸期の仏画も公開します。
    また、大晦日(12/31)夜10時より毘沙門堂境内において、「百八灯祭」百八灯の雪洞(ぼんぼり)に明かりが灯され、境内が幽玄の光と幻想的な灯かりの世界が広がります。是非この機会に初詣のお参りと史跡散策に出掛けられてはいかがですか。

  • #2

    sach (日曜日, 23 10月 2016 13:32)

    母方の先祖が、この妙徳院だと聞いています。
    伯父の家には妙徳院の小袖やその他諸々の遺品が家宝として受け継がれ、それらが10年ほど前に長岡市栃尾美術館で企画展として展示されました。
    東福門院和子が「名もなき女子の娘」とありますが、妙徳院の父は上杉景虎に仕えた栃尾城主、本庄秀綱とのことです。
    いずれにせよ、歴史上埋もれざるをえなかった女性が長岡で愛され、このような記事にしていただけたことを嬉しく思います。