長岡「お宝・秘話」ブログ


蔵王の地こそ長岡発祥の地

蔵王の地には今でも「蔵王様」と呼ばれるお屋敷(公園の一つのようです)があります。金峯神社が中心にあって、少し左側(信濃川寄り)に安禅寺があります。その周りの一部、半分位が堀と土塁に囲まれており、金峯神社の参道の両側と一部には巨大な欅が並んでいます。緑濃く木陰は涼しく森林浴には最高です。街中で、たくさんの住宅や北越製紙などの工場と接していますが、入ったとたん別世界に紛れ込んだ錯覚になります。    

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鉄製の仏像

安禅寺には数々の秘仏がありますが、その中に「鉄製」の仏像という、ちょっと変わったのがあります。鉄は錆びやすく、錆びると表面がぼろぼろなりやすいので、余り仏像向きではないと思われます。有名な仏像はもちろん、普通のお寺の本尊になっているものは、ほとんどが青銅や木製でできています。    

実際、この鉄の仏像は表面が削ぎ落ちていて、表情は分からないし、全体の印象はノッペラボウです。そのためか、このお宝・秘話ザクザクの秘仏の写真に取り上げられませんでした(次回更新時に掲載をお願いしています)。では「何故そんな欠陥のある“鉄の仏像”がこの安禅寺に安置されるのか?」ですが「そこにこそ大変な意味があるのではないか?」と推測で書いてみます。    

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安禅寺のモモンガ事件

 

今、蔵王様という呼び名で親しまれている敷地(境内)の中に、安禅寺と金峯神社は別々の建物で存在しています。見た目には安禅寺は寺院とは思えず、立派な堂々とした金峯神社の左奥に、「何でこんな古っぽい平屋があるの?」という感じです。

そもそも蔵王様は、室町時代から戦国時代にかけて蔵王堂という砦があったところ。その後、堀直竒が蔵王堂城とし、江戸時代には蔵王権現という“神仏混合”の修行道場となりました。ところが明治維新で王政復古、「神仏混合などもっての外」で、神社と寺院とに分離させられました。神道としての金峯神社は保護され今日まで隆盛を誇っています。一方の安禅寺は仏教、保護どころか廃仏毀釈の嵐、檀家のない天台宗も災いし、廃寺となり荒れ放題に・・・。

 

何とか明治19年に安禅寺が再興できたのは別当、三芳野千春の献身的な努力の賜物、でも運営はかなり厳しかったようです。三芳野氏亡き後から今日までは、ひたすら地元の有志の頑張りで維持されています。敷地の草取り、建物の修復などの労働奉仕や維持のための資金集め・・・と、本当に頭が下がります。

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越後の歴史上最高位になった女性?

 今回も引き続き、もう一人の白狐伝説になったと思われる女性の話です。この女性、もし証明できれば「越後の歴史上最高位になった女性」となります。その女性は「妙徳院」で、その祠は蔵王堂城址の土塁上に「正善霊神」という石碑があります。

 最高位すなわち超大物ですが「歴史の表舞台に出ては幕府に不都合」ということで“裏に閉じ込められた女性”です。“裏”ということでほとんど「資料は残っていない」のが残念です。裏の理由は、二代将軍秀忠の御手付きの女性で、その娘が天皇に嫁いだからです。その娘とは「徳川和子(まさこ)」、正室のお江の五女ということになっています。「和子は、将軍秀忠の娘として後水尾天皇に輿入れ」しています。正室は「お江」で茶々の妹で秀忠が側室を持つことを許さなかったということになっています。そこには天皇に嫁いだ将軍秀忠の五女は「本当は地方の名もなき女子の娘」というのでは困るわけです。

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パワースポット?安禅寺の「稲荷神社」

今回は秘話の第一回目、パワースポット???として写真が載っている安禅寺の裏手にある「稲荷神社」にまつわるお話です。

 安禅寺は、室町時代に砦の記録があるほど古くからの城門の地にあって、江戸時代には江戸幕府の肩入れもあって、「蔵王権現」という神仏混合の修行道場として栄えていました。それが明治初期に起こった廃仏希釈のなか、神道としての金峯神社は国家的保護もあって引き続き栄えていたのですが、仏教の安禅寺は守る檀家が一軒もなく廃寺状態になってしまいました。その後、個人で復興に全生涯を掛けた人物が出たりして、何とか今現在に細々ながら存続できています。

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歴史的な仏像?

この不動明王像。。。

なんだかいい表情だと思いませんか?

安禅寺に眠るお宝の中でも、歴史的価値が非常に高いと思われる掘り出し物です。

毎年御開帳の際にみることができます。

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金峰神社で流鏑馬が行われました。

安禅寺のお隣、金峰神社では毎年例祭で「流鏑馬(やぶさめ)」が行われます。

この流鏑馬が実は一風変わったものなのです。

普通は流鏑馬というと馬で走ってきて矢を的にあてますよね。

この神社では、矢を放ったあとに馬が走り出します。

なぜこんな流鏑馬なのか?それも長岡の歴史に関係があるそうです。